喜多嶋修の逸話

我が国のミュージックインダストリーの長老たちの中には、喜多嶋が戦後の日本の音楽業界の草分け的存在であったことを覚えている人も多いのですが、日本のロック・ポップの歴史上非常に重要な知られざる逸話がここにあります。

まだ人類が月面に降り立つ前、いわばビートルズをはじめとするブリティッシュロックの全盛期.1960年代後半のことです。

その頃の日本はいろんな意味でまだまだ欧米から遅れをとっていました。
音楽の世界でも然り、録音技術も機材も全て欧米の水準にはほど遠いものでした。

当時、ザ・ランチャーズの要として活躍していた喜多嶋は日本の録音技術に疑問を抱き、業界の歴史に残る前人未到のミッションを成し遂げたのです。それは単身イギリスに渡り、世界レベルの録音技術を学ぶという偉業でした。それにしても子供が一人で海外旅行なんてほんとにまだまれな時代です。

1960年代後半の英国ロックシーンはまさにリボルーション時代。

喜多嶋は当時のロンドンで最も活況を呈するふたつのスタジオ(アビーロードスタジオとモーガンスタジオ)を訪ねることになります。

当時18歳の喜多嶋は若気の至りでアポイントメントもなく行き当たりばったりの訪問でしたが、まずアビーロードではあっけなく門前払いを食いました。しかし、運良くモーガンスタジオでは快くスタジオ内に案内されたのです。

何とそこでは当時新人グループだったキングクリムゾンが録音中でした。
エンジニアから諸々の機材の説明を受け、マイキングからイコライザー
リミッターの使い方など懇切丁寧に伝授され、全てノートに記録して日本に帰国しました
彼にしてみれば、ポール・マッカートニーやエリック・クラプトン、キンクス、ブラインドフェイス、ピンクフロイド、レッドゼッペリン、ヤードバーズ、フリー等が常に録音していたモーガンスタジオという環境は正に驚きの連続でした。

帰国後、英国から持ち帰ったノートをもとに当時東芝EMIのアシスタントエンジニアだった吉野金次と真夜中に二人きりで東芝EMIのスタジオに籠る毎日が始まります。

そして出来上がった作品が、「ジャスティン・ヒースクリフ」という当時の業界が度肝抜いたアルバムです。

敢えて喜多嶋の名を伏せて発売したこのアルバム、今の時代になってヨーロッパ・アメリカで評価され、当時の日本人アーティストがブリティッシュサウンドに勝るとも劣らない作品を作り上げたことは驚異的だと絶賛されているのです。

そんな訳で、喜多嶋が英国から持ち帰った録音のノウハウを習得したエンジニア吉野は、日本で特別有能エンジニアとしてうなぎのぼりで知名度を高めることになります。

彼が日本の音楽界に残した業績は大きく、言わずと知れた数々のアーティスト達(はっぴいえんど/吉田美奈子/矢野顕子/沢田研二/矢沢永吉/中島みゆき/佐野元春..他)の録音を手掛けました。

その業績も言うなれば、吉野の才能もさることながら、喜多嶋が英国から持ち帰った1冊のノートが大きく一翼を担ったと言えます。

したがって、そのノート1冊で日本の録音技術は革新的に変わったと言っても過言ではありません。


 

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